感染症リスクの低減と下水道の歴史について、下水道広報プラットホームの関係者からご寄稿をいただきました。
「江戸は当時、世界最大の都市でしたが、疫病が流行らなかったのは、用排水の管理、し尿の徹底利用があったからだと言われています。」とのこと。日本の近代下水道も初期の目的は感染症リスクの低減だったそう。
下水道は歴史的にみても公衆衛生に欠かせないシステムであり、そこには公衆衛生を最前線で守ってくれているエッセンシャルワーカーがいたのだということが分かります。(編集長:奥田早希子)
感染症からまちを守ってきた下水道
そもそも水道や下水道は洋の東西を問わず、感染症対策として始まりました。つまり清浄な飲み水等の供給と、使った後の汚水とし尿の適正な始末です。
ヨーロッパ、パリやロンドンの下水道はコレラやペストの大流行を機に始まりました。
悪臭漂う「汚わい」の中に悪霊が棲んでいて人々を病にする、だから悪霊を街の外に追い出そうという考え方です。
「汚わい」とは、穢れたもの、汚いもの、し尿、糞尿などのことです。汚穢と書きます。
当時は外敵から守るための城壁都市が多く、城壁の外に汚わいを出すために下水管が作られました。出すことが目的でしたから、処理は考えられていませんでした。
これが18世紀、産業革命期の西欧の下水道の始まりです。
日本でも、古くは藤原京から平城京へ、平城京から平安京への遷都の原因の一つが感染症の流行だったと言われてます。上流のし尿の始末が不十分だった(水路の上に桟橋を渡した水洗トイレがあった)ので、下流の用水路に流れ込んでいたと言います。
江戸は当時、世界最大の都市でしたが、疫病が流行らなかったのは、用排水の管理、し尿の徹底利用があったからだと言われています。
開国によって文明と同時に望まざる病原菌も外国から入ってきました。東京でも数万といわれるコレラ感染死者があり、低湿地だった神田界隈の雨水(汚水混じり)排除のため神田下水が埋設され、これが近代日本下水道の発祥とされています。